現在は吉安郷という名ですが、土地のご年配の方には吉野村で通じます。吉野村という名前は徳島県の吉野川流域の出身者が多かったことでこの名がつきました。
1917年(大正6年)、その吉野村に本尊の弘法大師像などを日本から取り寄せ、真言宗高野派の「吉野布教所」が建立しました。今回訪れた「吉安慶修院」は、その「吉野布教所」があったところです。開基は、川端満二氏。1922年には、村に講堂や診療所なども建て、大きな日本人コミュニティが出来上がりました。
戦後は慶修院と改称し、現在の本尊は弘法大師(空海)、脇仏は不動明王と毘沙門天。境内には、光明真言百萬遍石碑、百度石、八十八尊石佛などがあります。1997年、ここは国家第三級古蹟に指定されました。よって終戦で広島に戻されていた弘法大師像も58年ぶりに本堂に戻り、2003年に修復工事が完了しました。
当時の移民
真言宗の開祖である弘法大師ゆかりの四国八十八ヶ所巡りで、一番札所の霊山寺がある徳島県。「吉野村」に移住した人々は、度重なる吉野川の氾濫に悩まされ、異郷の島に「新天地」を求めたのです。が、彼らは内地に生活基盤を残して来る官史などではなく、一切の財産を処分してこの地へ渡ってきた農民たちでした。
移民を私営で募集し、移民政策に功績を残した人に賀田金三郎という人がいます。日本が台湾を割譲して4年後の1899年(明治32年)に、賀田金三郎率いる賀田組が移民の応募を開始していました。
1910年、吉野村役場が設立。開村当初は61戸の集落でした。1919年、軽便鉄道が開通したことによって、道路、灌漑用水、病院、学校、郵便局、派出所ほか様々な施設も整備され、1937年には吉野庄役場に改名、終戦年の1945年には吉野郷に改名、その後1948年吉安郷となりました。
「湾生回家」
当時日本からの移民の条件として、直系一族全員で渡ってこなければいけない。祖父母のみ徳島に残るというようなことはだめで、そのため日本国内の土地や財産をすべて放棄することを国から求められたそうです。また、なぜか男女ともに眉目秀麗という条件も加えられていたそうです。
戦後台湾から引き揚げた日本人は、47万人以上いました。引揚者は服と布団と1000円しか持つことを許されませんでした。その他の財産はすべて台湾に残していかなければならず、台湾でこのまま生活することを希望した人も多かったそうです。
湾生は日本人ですが、彼らの故郷は台湾でした。しかも日本へ戻っても戸籍がないため、刑務所に3年ほど入れられ、その後も湾生は病原菌を持っているとされ、差別的に扱われたそうです。戸籍を復活させるのに長年を要したのと、一切の財産を放棄して台湾へ渡ったため、生活は一から開始。台湾で所有していた土地や不動産も国民党に没収され、その後補償として戻ることはありませんでした。行くときも戻るときもほぼ裸同然だった湾生。
境内を散策
「不動明王」
「不動使者」や「不動尊」と呼ばれることもあり、「不動」は変わらない慈悲の心と動じない心、「明」は、智慧の光、「王」は万能操作する力です。険しく怒っているようなお顔をしていますが、台湾にある不動明王はそれほど怖そうに見えません・・とはナビの感想。
「光明真言百萬遍石碑」
人は病気になると「光明真言百萬遍」石碑をお参りし、厄払いを願いました。手に数珠を持ち両手を合わせ、「南無大師遍照金剛」と唱え、石碑の周りを108回廻ると治癒したそうです。
「百度石」もありました。治癒すると今度は1000回のお礼参りをするということも書かれています。
「八十八尊石佛」
弘法大師(空海)は、香川県の出身で、四国各地を布教し八十八ヶ所の霊場を開設しましたが、ここには、霊場を模した石仏が置かれています。ここをお参りすれば、四国八十八ヶ所をお遍路したのと同じ効果があるとか。
境内には、錆ついた鐘や手水舎もあり、日本のお寺そっくりです。
日本人からすると、あれ?ここは一体どこ?と感じるかもしれませんが、現在台湾人には有名な観光スポットになっています。日本と台湾が繋がっていた場所というスタンスで、「吉安慶修院」を訪れてみるのも興味深いものがあります。
車で2,3分のところに、吉野神社跡と拓地開村の記念碑があるので、こちらもぜひ訪れてみてください。 |