ブロワン(布洛湾)
花蓮側のタロコへのゲートをくぐり、タッキリ渓沿いに進んでいくと、燕子口に出ます。タロコ渓谷の岸壁のあちこちに小さい穴があり、かつては燕が巣を作っているため、この名があります。そのちょうど真上に少々急な坂を登るとブロワン(布洛湾)レクリエーションエリアがあります。落差は120メートル、道のり450メートル、およそ20分の行程です。
かつてここは台湾原住民のひとつタロコの村で、ブロワン(Bruwan)はタロコの言葉でこだまを意味します。海抜約370メートル、年平均気温21.5度、上下二段の台地には熱帯植物が生い茂り、様々な動物が生息しています。当地からは石器や陶器の破片がたくさん出土し、少なくとも1200年前から人が住み始めたことが分かっています。これらの遺跡は台北北部で発掘された十三行文化に共通するものがあるといいます。
下台地にはブロワン円形劇場や温室、レルトハウス、タロコ工芸展示館があり、原住民のお年寄りが伝統の織物や藤で編んだ籠を作っているのが見学できます。上台地には「山月村」という宿泊施設があります。ここはタロコ色で溢れた空間です。タロコの彫刻があちこちに飾られ、中庭には槍がかけられた烽火台があります。宿泊するロッジは中に入るとヒノキの香りが香ばしいです。食事はタロコの伝統に沿ったアユやイノシシの焼き物が主体で竹筒ご飯やゼンマイなどの山菜が味わい深いです。
夜8時20分からは好例の原住民によるパフォーマンスがあります。タロコの美女が美声を披露し、伝統衣装に身を包んだ子供達がかわいい踊りを舞い、最後は全員で合唱します。その後、真夜中の探検と称してロッジの奥の道を歩きます。帰ってきたら木彫り教室にも参加できます。
縦横にハイキングコースが
タロコ国家公園はまたハイキングに恰好です。あちこちにハイキングコースが整備されています。例えば、サカダントンネルを抜け、サカダン橋のそばに下る階段があります。そこを下っていくとサカダン歩道です。タッキリ渓の支流であるサカダン渓沿いに歩いて片道およそ2時間、緩やかな道がずっと続いています。途中の川にはあちこちに見事な巨大な大理石の岩が転がり、また川の水はこの上なく透き通っていて、淵はサファイアのように青々としています。歩いていると美しい鳴き声が聞こえてきます。実はこれは鳥ではなく、赤蛙、別名鳥蛙の鳴き声とのことです。ずっと歩くと旧集落跡にたどり着きます。ちなみにサカダン(Skadang)とは臼歯の意味です。
天祥の手前、緑色展示館のそばには緑色歩道の入り口があります。「合流」までおよそ1時間、途中には断崖絶壁や明かりのない洞窟があってスリル満点です。懐中電灯を準備しておいた方がいいです。今は安全のため、柵が道の脇に設けてありますが、日本時代は柵もありませんでした。この緑色歩道の途中には日本時代に建てられた殉職記念碑があります。
各所に残る日本の「足跡」
この地域に人々が住み始めたのはかなり古く、新石器時代にさかのぼります。峡谷の入り口には日本時代に発掘された富世遺跡があります。タロコが2、300年前、西部の霧社(南投県仁愛郷)の方から合歓山を越えて移住する前に住んでいたマカウリンと呼ばれる人々のものと言われます。彼らはその後、冷泉で著名な宜蘭県の蘇澳の猴猴社に移しました。台湾原住民の中でも珍しいミクロネシアに近い言葉を話していたといわれますが、充分な記録もないまま言語は消失してしまいました。移住以来、タロコの人々はかつてこの地域最大の優勢な勢力で、日本が台湾を領有した後も統治の手はここまで及びませんでした。1915年、佐久間総督によるタロコ戦役終結にいたるまでこの地はタロコの天下だったといえましょう。
富世遺跡のそばにはチワン記念教会という長老派教会が立っています。現在、タロコを含めた原住民の多くはキリスト教信者ですが、日本統治時代、原住民への布教は禁止されていました。その時、最初にキリスト教に入信し、総督府の目をかいくぐって布教に励んだのがチワンという女性でした。教会の奥にはチワンたちがこっそり礼拝をしていたという洞窟があります。ついでながら、タロコ峡谷そばの町、新城郷のカトリック教会は、日本時代の神社が建て替えられたものです。
寧安橋と天王橋の近くには不動明王が祭られた天皇廟があります。日本時代に道を作る時、工事の安全を祈願して建てられました。不動明王は台湾の民間信仰で祭られることはなく、おそらく台湾唯一のお不動さんではないでしょうか。日本時代の本尊は洪水で流されたとも盗まれたともいい、戦後に作られた二代目不動が座っています。お線香のあげ方も今や台湾式です。このお不動さんはあまりしられていませんが、時間に余裕のある方は探しに行かれてみてはいかがでしょうか。
最後に国立公園からお客様に一言。「足跡のほかは何も残さず、写真の他は何もとらない。」 |