1914年(大正3年)の日本統治時代、花蓮に「南岡」と「中野(林田)」、「北林」の3つの集落を統括した林田移民村が作られました。当時この村では至る所にタバコ畑とタバコ農家がありました。
戦後南岡と中野(林田)は大榮里になり、北林は、1つの独立した里になりましたが、住民たちは昔の習慣から南岡一帶を一村、大榮國小一帶を二村、北林を三村と呼んでいます。二村は日本人が多く住んでいたところで、台湾人は現在の大忠路から西側の台湾村に住んでいましたが、戦後彼らは次第に昔の日本村へ引っ越してきました。
中野(現在の大榮二村)
南岡(大榮一村)、中野(大榮二村)、北林(北林三村)には、住民の飲料水を確保するため井戸が掘られ、当時は8箇所に掘られたのが、現在中野(今の大榮二村)に1つだけ残っています。ここは民家の庭になっていますが、そのまま残してくれてあり、当時の大きな大阪式煙楼、奥には家畜を飼っていたと思われる飼育小屋もほぼ原形を留めていました。
二村は、林田村の中心地だったので、小学校、専売局、役場、派出所、病院、神社などが置かれました。現在の台鉄「鳳林」駅から二村にかけて、公共の施設が完備していた面影が残っています。軽便鉄路も開通していたので、とても栄えた村だったのでしょう。
復興路には「花蓮港廳鳳林支廳林田警察官吏派出所」があり、その広さから当時の様子が思い浮かびます。現在この「派出所」は客家委員会が出資して、「客家庄移民村警察廳」に改名し、コミュニティーセンターとして地区住民たちに運営されています。「開村記念碑」は、以前林田神社の境内にあったそうですが、2014年ここに「林田村開村百年紀念碑」が建てられました。
本殿の台が残った林田神社は、2014年に移民村100周年を記念して、神社の周囲が当時の姿に復旧されました。
桜がたくさん植えられていました。数年後が楽しみです。
現在の林田村
林田村があった鳳林鎮は、ちょうど花蓮県の真ん中あたりで、花東縱谷(花蓮と台東の間で、中央山脈と海岸山脈にはさまれた一帯)に位置しています。現在は、スイカ、ピーナッツ、剥皮辣椒というトウガラシの種を取って漬物にしたビン詰めの生産などが有名で、住民の多くは農業に従事しています。また、客家人が住民の6割を占め、東部で客家人口が最も多いエリアです。その客家人口の密度の高さから、台湾の客家文化の重点発展区にもなっています。他には外省人、台湾人、原住民ではアミ族、サキザヤ族、セデック族が住んでいます。